面接をする

先週から今日にかけて、就職活動の話を多くした。そして面接が苦手だったことを思い出した。間違ってるとか嫌いとかではなく、とにかく苦手なのだ。

 

面接ほど結果への理屈がわからないものはない。当然それはお話が上手であったり、内容が理に適っていたりと、チェックされているポイントはあるのだろうけれど、落ちた時と受かった時の差がわからないのだ。もちろん猛烈に失敗したなと思ったときは落ちてしまうのだけれど、どんなに手ごたえがあったり条件が良かったりしても落ちる時は落ちるし、そもそも初対面の人と話す時に特に差の付けようなどないので、回毎の個体差が無い。本当にそうなのかはわからないけど、とても運の要素が強いような気がして、その癖だいたい重要なポイントでしか行われないので、怖くて苦手だ。

 

苦手な理由の一つには、面接が不得意だということもあるのだろう。緊張しいで滑舌もよくないので上手に話せないことも多い。思うような結果が得られなかった理由をつまみあげるのが簡単なのだ。でも少し踏ん張って自分が面接官だったとして考えると、固くなっていたり、単語が少し聞き取りづらかったりすることが、合否に直結するのかと思うとそうではないんじゃないかなあと。むしろフィーリングなんじゃないのと。もちろんこの主張が許されるのは、もっと真剣に面接に向き合って、練習して、上達して、傾向をつかめるほど回数を重ねた人だけだということも理解している。就職活動を溺れるように過ごして、たまたま伸ばした手に藁があったような僕に、面接の不合理を嘆く権利はない。

 

確固たるモノを持たずに臨んでしまっていたせいか、面接の話をするときは少し嘘をついてしまう。テクニックも心持も結構後付けだ。それは、己をよく見られたいという下心ももちろんあるのだろう。だけどそれ以上に、自分の曖昧な気持ちをぶつけるより、理想的な確固としたものをぶつけてあげた方が、その人自身を研ぎやすいのではないかという気持ちがあってのことだ。と、思う。これも後付けなのではないだろうかと言う思いが、曖昧な表現を産んだ。この辺の思いっきりの悪さも、面接の場では御法度なんだろうな。