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箱根を観る

今年に入ってめったに感動することが少なくなってしまったのだが、箱根駅伝だけはぐっと来た。箱根駅伝の年齢をとうとう追い越してしまったことも関係しているのだろうか。国士舘大学の襷がつながらなかったのを見て、泣きそうになってしまったのだ。

 

もうしばらく真剣にスポーツをすることが無くなった。最後にレースに出たのは2年前だし、本当の真剣勝負となるといつまで遡ればいいのかわからない。それでも、スポーツと言うもの事体は昔より好きになっているような気がする。戦いう場所から降りたからこそ、素直にリスペクト出来るようになってきた。典型的な部活少年だった頃から考えると大きな進歩だ。

 

特にレースは、ラン競技は尊いと思う。普段全人類が行っている二足歩行を極力早くすることだけに全神経と体力と人格を注いでいるのだ。あまりに変で、強烈にしんどいことだ。よくやるなあとも思いつつ、それがとてつもなく楽しい事であることもなんとなくわかっているので、同時に羨ましくもある。純粋である物は何でも美しい。だからこそ、思うような結果が残せなかったアスリートを見ると、完全に他人事ではあるはずなのに、とても心が痛む。その日の結果が全てじゃないし、一つの競技、もしくはスポーツと言う行為のみが全てじゃないのは確かなのだが、その瞬間、アスリートにとってはそれが世界のすべてなのだ。それを思うと悲しいし、やはり同時に羨ましい。

 

そんなレースを見た後は、自然とジョグにも力が入るのだが、ほとんどの場合オーバーペースで、走り切れずに終わってしまう。頭だけはアスリートの理屈に戻っても、心と体はなまったままなのだ。いつか戻れる日が来るのだろうか。

面接をする

先週から今日にかけて、就職活動の話を多くした。そして面接が苦手だったことを思い出した。間違ってるとか嫌いとかではなく、とにかく苦手なのだ。

 

面接ほど結果への理屈がわからないものはない。当然それはお話が上手であったり、内容が理に適っていたりと、チェックされているポイントはあるのだろうけれど、落ちた時と受かった時の差がわからないのだ。もちろん猛烈に失敗したなと思ったときは落ちてしまうのだけれど、どんなに手ごたえがあったり条件が良かったりしても落ちる時は落ちるし、そもそも初対面の人と話す時に特に差の付けようなどないので、回毎の個体差が無い。本当にそうなのかはわからないけど、とても運の要素が強いような気がして、その癖だいたい重要なポイントでしか行われないので、怖くて苦手だ。

 

苦手な理由の一つには、面接が不得意だということもあるのだろう。緊張しいで滑舌もよくないので上手に話せないことも多い。思うような結果が得られなかった理由をつまみあげるのが簡単なのだ。でも少し踏ん張って自分が面接官だったとして考えると、固くなっていたり、単語が少し聞き取りづらかったりすることが、合否に直結するのかと思うとそうではないんじゃないかなあと。むしろフィーリングなんじゃないのと。もちろんこの主張が許されるのは、もっと真剣に面接に向き合って、練習して、上達して、傾向をつかめるほど回数を重ねた人だけだということも理解している。就職活動を溺れるように過ごして、たまたま伸ばした手に藁があったような僕に、面接の不合理を嘆く権利はない。

 

確固たるモノを持たずに臨んでしまっていたせいか、面接の話をするときは少し嘘をついてしまう。テクニックも心持も結構後付けだ。それは、己をよく見られたいという下心ももちろんあるのだろう。だけどそれ以上に、自分の曖昧な気持ちをぶつけるより、理想的な確固としたものをぶつけてあげた方が、その人自身を研ぎやすいのではないかという気持ちがあってのことだ。と、思う。これも後付けなのではないだろうかと言う思いが、曖昧な表現を産んだ。この辺の思いっきりの悪さも、面接の場では御法度なんだろうな。

眼鏡を買う

今日、眼鏡を買った。前回眼鏡を買ったのは確か高校生の時だったはずなので、眼鏡を買うのは実に5.6年ぶりだ。結論から言うと、これがじつに面白くなかった。

 

もともと買い物は結構好きだ。エンゲル係数が高いタイプの怠惰貧乏学生なので大きな買い物はまずしないし、ファストファッションのショップに行った時でさえ、手にするのはほとんどセール品だけど、物を選んだり手に入れたりするのは好きなので、空いてる時間はよく本屋や服屋に行く。お金を払うのは好きじゃない。だからパチンコなんかは本当によくわからない。要はお金を払って大音量で映像を見せられているのだから家でYoutubeで事足りるんじゃなかろうか。

 

物を買うときの喜びは、絶対的なものと相対的なものがあると思う。言い換えるならば本能的な喜びか社会的な喜び、集めるという行為自体に喜びを感じているか、物を集めた後の自分に喜びを感じているか、ここで大きく「買い物人」としての資質が分かれると思う。前者は買い物によってコレクションの強化し、後者は自らのステータスの強化を望むのだ。そして僕の場合は完全に後者だ。本質的に日常の整理整頓が極端に苦手なので、そもそもコレクションが能力の問題で出来ないのだ。高校時代の卒業アルバムは昔のJリーグ選手名鑑と共に机の下に平積みになっているし、内定証明書と椎名誠は同じ棚だ。物を集めること自体に喜びを見出す素質は僕にはない。

 

前者が集めたものを眺めるのに対して、後者はそのものを集めた自分に酔う。つまりは「こんなに良いシャツを買って身にまとっている自分はなんて格好いいんだろう」ということだ。そこには完全に自分の物差しで測った優越感がある。だからこそ、自分の得意分野でない買い物は楽しくないのだ。買うモノ事体への興味があるのであれば、得意不得意にかかわらずある程度は楽しめるはずだ。しかしそれが自らのステータスを上げるための行動となってしまったら、プラス分の見極めが難しい未知の分野の買い物は、むしろ怖い行為に早変わりしてしまう。慎重さは時に成功を導くことはあれど、臆病になって上手くいくことなんて無い。結果、いい買い物になるはずもなく、今現在僕はまだ家族に眼鏡を変えたことを指摘されていない。

 

結局のところ、もっとオープンに物事に接するしかないのであろう。眼鏡も、しっかり下調べして、店員さんに良し悪しをちゃんと聞いて、そのものに興味を持てばきっと買い物も楽しいはずだ。実際、少し挑戦した柄っぽい眼鏡で、気に入ったものは何本かあった。今日はお金が無かったから手が出なかったけど、少し余裕が出来たらまた眼鏡を買いに行ってみよう。そしてそれまでに、眼鏡を置く場所を部屋に作らないと。机の上の片付けからだ。理想の買い物への道のりは長い。

なるべく毎日書く

受け取ってばっかりの毎日だなとふと思った。

 

大学4年生の最後の春休み。特に何かに追われることもなく、日々を完全に漫然と過ごしている。それでも、サークル活動や試験、就活なんかに追われていた日々に比べると、それなりに楽しみな予定もあるし、のんびりするのも嫌いではないので悪い時間ではない。でもなんだか物足りない。好きなものに囲まれているはずなのに、どうにも人間として弱くなっていっているような気がする。何だろうって考えた時に、とにかく発信や表現の場が無いんだという事に気が付いた。

 

今の僕の娯楽道具は、主にスマホとパソコンで、そこから得られる刺激は全て受動的なものだ。インターネット上の記事や動画もただ見るだけだし、スマホゲームの操作なんてたかが知れている。結局は映像を見せられているだけだ。SNSでの発信は内気な僕には向いていない。日々友達とくっちゃべってる程度しか、今の僕は発信する場所が無いのだ。

 

思えば何かに熱心に打ち込んでいた時は、周りに要求もしたし、スポーツであれ、学業であれ、福利厚生団体であれ、結果は何かしらの形で表現できていたはずだ。それが今はどうだ。遊びの連絡の一本でさえめんどくさがる始末だ。これではいけない。使わない刀はすぐ錆びてしまうはずだし、使わないふくらはぎはすぐつってしまう。だから、毎日何かを書く場所が欲しいと思った。走ったり、電車に乗ったり、バイトしたり、風呂入ったりしてるときに考えることをちゃんと文章に起こして、発信するトレーニング。いわばこれは「人間」の自主トレなんだと思う。

 

簡単にルールを決める

・なるべく毎日書く

・毎日違うことを書く

・ちゃんと書く

 

これだけ書くのに30分もかかってしまった。やっぱりハチャメチャに鈍っている。とりあえず毎日一回、書き続けてみよう。ムキムキになるぞ。